【うちんTOMODACHIH❤】第拾話 〜徳川幕府第四代将軍 家綱補佐・保科正之に学ぶ〜

江戸時代は、二百年以上も戦争がなかった、世界史の中でも奇跡と言われる時代です。
高い教育水準を誇り、絢爛たる文化が花開き、環境に優しい循環型の社会が出現しました。

徳川将軍家のお膝元・江戸の町は、18世紀初頭には人口が百万人を超え、ロンドンやパリをも凌(しの)ぐ、世界一の大都市でした。
その江戸のシンボル・江戸城には、天守閣がありません。将軍の本拠地・江戸城になぜ天守閣がないのか、今回はその秘密に迫ります。

実は江戸城天守閣は、明暦(めいれき)3年(1657)に起こった火災で焼け落ち、それから再建されないまま350年以上が経っています。

この時、江戸の町の60%以上が焼け、死者は数万人。
正月早々だったので、焼け出された者は寒さに震え、食うや食わずの状態でした。

徳川幕府は、二度と惨事が起こらないよう、江戸城周辺に密集していた建物を区画整理し、郊外へ移したり、延焼を防ぐための広小路を設けたり、川の拡張などを行いました。

こうして江戸の町は都市として整備されましたが、これら公共事業には、当然莫大なお金がかかります。

そんな時、天守閣の再建が議題に挙がりました。
多くの大名や幕閣が再建を主張する中、4代将軍・家綱を補佐する保科正之(ほしなまさゆき)は決断しました。

「天守閣を再建するには莫大な費用がかかる。
 そんな金があるなら、
 夥(おびただ)しい被災者の救済に充(あ)てるべきだ。」

天守閣は軍事施設であり、城主の武威を示す、武門の(ほま),誉)れとも言うべきもの。
つまり正之は、徳川家の体裁(ていさい)よりも領民への慈悲を優先させたのです。

正之は、2代将軍・秀忠と侍女の間に生まれた子で、家康の孫にあたります。

「城に天守閣がないのは平和な証拠。
 それこそが徳川の善政の象徴である」

というところに、徳川の血を引く者として誇りを感じたのかもしれません。
そしてこの正之の思いを二百年以上継承した徳川幕府も、また見事だったと思います。

2013年の流行語大賞の一つに「おもてなし」が選ばれましたが、おもてなしのベースは、相手への思いやり。
現代に生きる私たちが、相手への思いやりをどのように表現していくか、きっと正之も楽しみに見守ってくれているのではないでしょうか。

 

「博多の歴女」白駒妃登美

埼玉県生まれ、福岡県在住。
大学卒業後、大手航空会社の国際線乗務員として7年間勤務。
その後結婚、出産を経て、福岡県を拠点に結婚コンサルトの活動をしながら、「博多の歴女」として歴史講座を積極的に展開。
2012年、日本の歴史や文化の素晴らしさを国内外に広く発信する「株式会社ことほぎ」を設立。
全国各地で公演活動に取り組んでいる。著書に『人生に悩んだら「日本史」に聞こう』(共著、祥伝社)、3月末には新刊『感動する!日本人は逆行をどう生きたか』(中経出版)を発売。
 

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